このマハラバ村があったお寺を、私は障害者運動の活動家の時分、
バイブルとなる横田弘の「ころび草」で読んで強烈な衝撃でイメージ化した。
そこへつい一週間前の5/11(月)、丁度その場所から下山した所である。
大佛和尚の強靭な背中におんぶされる、横田氏は、山の道なき道をひょい
ひょいと自分を背負って飛び越えて登って行く、和尚の健全者の体力に必死に
すがらないとならないのだが、そんなことをしてしまえる健全者の身体が恐ろ
しくてたまらなくその恐怖に又も、強く相手にしがみつく矛盾する心を書きし
るしていた。
私はその描写に、障害者側からしか見えない世界観に酷く共鳴し、そこに
世間という健全と言われる視点からではない、違う新たな感性を表現する、
可能性を感じ心が高鳴る出会いであった。それは、私の独自な表現への、入り
口だったとも言える。
まさしくその場所へ私も足を踏み入れられる、という夢にも思わなかった
ことが実際に、何気なくひっそりと公演がはねた後の余韻残る心身へ染入る
ように訪れた。