いつも公演の始りだけで、後は尻切れトンボになる傾向があるな。
「ぬえ」無事に終了報告をしていないので、気になり少し。
この作品は夢のように去っていった。
そこには、そこはかと平安の埃と湿気のような、空気と身体を民は右往左往しながら、貪欲に生きている姿がある。
その中心は、論を持たな、念の存在だ。
匂いと空気と、それを醸し出す、発する身体が確かにだが儚く存在する。
身体は、我侭にどこにでも横たわって、労働の匂い、食い物を食った匂い、よだれと汗と翔と便にまみれた排泄の匂いが、生きていることを判らせる。
そのとき、人は、どんな声を発し、どんな声で笑い、どんな下世話なことを話すのか。
今では、聞こえず、どんな想像も届いたとは思えない。
それほど、生命に貪欲に正直だった民衆の生活があったんだろう、と。
そういう喪失感が現代と平安の間にはある。
身体を取り戻したい!
そう、希求するのが、態変の態変的出発であり、行き着くところだ。
それは、障碍だからではない。
障碍の身体から、よりその無くされている実存への、問が浮かび、凝縮された身体の実態に気がつく。
身体と、身体を取り巻く環境が緩く、身体を感じ投じ打ち当たって跳ね返る、生身の命とともにある身体を、感じさせないところに現代社会がそびえ立っている、ということだ。
身体を取り巻く環境の、真偽を問う。
それは剥がし剥がし、幾重にも乗り換えても、まだ足りなく、玉葱の皮を剥くような行為だ。
その間を布とダンボールいう素材が、衣装だけでなく、体をくるむテントであったりそして必ず今回は終わりには、そこから離れ今までその中にあった身体を外にし、くるんでいたものは外界となる刹那。
身体の延長に、空間と空気が、びっしりと詰まっていて、皮膚からの分泌物が浸透するように溶けていく。
それを、隔てているのか、見せているのか、それ自身なのか、いろんな遮断布とダンボールはその存在を変容させ、見る人の心に巣食うものを放り出させる。
そこには、身体がある。