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本年2月5・6日NHK教育テレビ放映、ETV 2003『アウシュビッツ証言者はなぜ自殺したか--プリーモ・レーヴィ「これが人間か」』は、前編・後編2日間にわたっての放送を観ることができ、私にとって非常に衝撃的な出逢いであった。この秀作に巡りあえたことに感謝したい。そのことを忘れないうちに、記さねばと思う。 これは在日コリア二世の徐京植(ソ・キョンシク)氏が、自らにとって精神的な支柱となった文筆家、故プリーモ・レーヴィを追う形で構成されている。 普段あまりテレビを見ない私は、新聞のテレビ番組を読むことで観たいものをチェックするのは毎日の癖でよっぽど観たいものでない限り、結局は忘れている方が多い。しかしその行為は、今の私の心に引っ掛かる材料探しとして、観る観ないは問わず大切な日課にしようと思っていて、その日もたまたま夕方前に帰宅して、疲れを癒すためにボーッと新聞裏のテレビ欄を眺めていた。 最近私は自分の子供の頃の体験、施設収容に対し、やはりそうとうなこだわりがあるのを感じている。それは『マハラバ伝説』という作品を作る切っ掛けにもなったりし、少しづつ表現の形をとりつつあるのだが表現で足りるのか、という問い掛けが自分の中にあるのを感じている。やはりそれは私の一生の問い掛けとなるのであろう、という気がしている矢先に、アメリカのイラク攻撃という新たな戦争が始りそうな今日的状況で、常に私の中から浮上してくるのが障害者もガス室に送られたあのアウシュビッツという大量殺戮隔離施設である。 だから『アウシュビッツ証言者はなぜ自殺したか--プリーモ・レーヴィ「これが人間か」』のタイトルは、〈アウシュビッツ証言者はなぜ自殺したか〉だけが自分自身への問い掛けとして、目に飛び込んできた。プリーモ・レーヴィの名前は私は全然知らなかった。 前編での映像は、汽車の中で揺れながらのプリーモ・レーヴィ氏自身の昔の姿が何度か挿入される構成で、そのためか白黒が基調の印象であった。京植氏のナレーションで進められる内容は、映像中心で非常に静かな淡々としたものだった。 イタリア出身であったプリーモ・レーヴィ氏は、ユダヤ人であるという理由で、アウシュビッツへ連行される。600人のユダヤ人が一緒に運ばれ、僅か2分で質問によって2つに振り分けられた。それは「働けるか働けないか」であった。自分は先の者がその質問をされているのを聞いて、隣にたまたま並びあわせた同い年ぐらいの青年に「あんたはどう答える。自分は働ける、と答えるつもりだが。」と聞いたところその青年は、「もう自分はどうでも良くなってきた。」と答えたそうである。そしてその後に二度とその青年を見かけなかった、という。その振り分けにより100人が「働ける」と答え、始めから妊婦・子供は働けないほうである。そしてその500人の「働けない」の人は、直ぐに大きな煉瓦造りの建物の中に行かされ始めの所で、シャワーを浴びるので服を脱ぐようにいわれ、大急ぎで脱ぎ隣の所へ移動する。そしてその扉を閉められたかと思うと、天井に張っている鉄管から間もなく、水が落ちてくるのではなくガスの気体とも付かない気体が噴出してくる。20分もすると大抵は全員が死亡する。そして次のところに焼却炉が三つ並んでいて、作業員がその死体を次から次へと焼却炉へ運んで焼く。「働ける」と答えた者は、そのとき100人(ほぼ6分の1しか残っていなかったぐらいか?)。先ず、右と左の違う片方づつの靴を渡され、それを履く。これはどういうことかというと、歩く、という日常的な何事にも付いて回る動作を非常にやりにくくさせて、身体を早く壊させる。靴擦れが激しくでき足をぱんぱんに腫らせる者が続出し、そこから菌が入り膿が溜まり歩けなくなる。そこではユダヤ人に労働させることが目的なのではなく、如何に早く殺すか・死に至らしめるか、が目的なのだ、とのナレーション。私は、もう頭がぐらぐらして、説明が入ってこないぐらいショックであった。それまでも、「シンドラーのリスト」「ショアー」などは観ていて、知っているはずのアウシュビッツの現実である。それでもこのときの手持で移動する、まるで自分がそこに居合わせながらこの目で撮っているかのような映像、画面に打ちだされる数字・静かな京植氏のナレーション。私は、収容でガス室に運ばれる者でもあり、皆を急き立て服を脱ぐように命じ扉を閉めそのままガスのバルブをひねり、死体を焼却炉に投げ込む、者でもあった。 私はそのとき、どっちの立場性へも変化しうる同時性、を私は確かに感じた実感に戻った。この相反する立場の両方、そのどちらにも転びえるしその両方共を抱えている同時性、が施設体験の本質で人間の本質なんだと、私は子供の頃に思った実感と同じものであった。 その後の故郷の川の川沿いに生き帰ったプリーモ・レーヴィが、美しい夕日をどんな思いで眺めたか。その映像が本当に川、というものとそこに沈む夕日、とが哀しいぐらいに美しいく、生還しても生還とは思えない深い心を引きずっているのが伝わるものだった。 私は、このアメリカのイラク攻撃がいつ始るかという今日に、人間の持つ本質とは、を改めて思い出させてくれたこの放送を記しておかなければと思う。絶対に戦争での強い者の論理で、押し通し殺戮することはどんなに、心にとって取り返しの付かない人間の大罪を侵すことか。これは人間だからいえる人間への、犯してはならない過ちなのだ、と。
by kim_manri
| 2003-03-20 19:26
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