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今私のキーワードは<諦め>である。 それも何もしないうちに諦めさせられることに、嫌、という感情を持ち憎悪感を激しく持っていた子供の頃の施設時代を思い、その言葉が身近に近寄っていることに危機感を覚えるからである。 私の芸術行為はこの<諦め>られないもの、ここからきているのではないだろうか。 情報誌イマージュの29・30(今年3月に発刊なのでまだ出てないが。)「金満里のページ-身体論-」にも書いているが。身体介護を受ける身として、身体感覚から来る不快感に非常に敏感であり、きっちり返していたというのは施設の職員との接触からそうだったのを思い出している。そういった自分の身体への、他者に譲れない感覚は実は持ちにくいものかも知れない。 例えば具体例を上げると、靴下を足の裏表逆に、半分のところで横いがみで履かせても平気でそんないい加減さでも知らん顔しようという職員には、「もっと、ちゃんとはかして」という。そんなときの言葉の後には、「気持ち悪い。」が、必ず付く。自分の不快感には理由があるということである。私の子供の頃の施設職員は、完全に介護するのが邪魔臭い、という相手を人間とは思わないぞんざいな扱い、からくるものなのである。 しかしそこは私自身として相手がそうしているのを見ているから、これは価値観としてちゃんとはかせて欲しい、とかちゃんと扱って欲しい、という主張の面だけではそれを言っているのではない。現実的に、皮膚感覚としてゴロゴロやゴワゴワという靴下と足のそりが悪いところからくる、実感としての"気持ち悪い"なのである。 しかし気持ち悪いという不快を持つ、不快感は、私の場合身体にまつわることで多くあった。そう感じたときは、それをきっちりと言う。それは自分の身体感覚として、当然なんだ、と確信していた。 その他に不快だと、どういうときに思うのかを、考えてみる。私は自分の感性として、訳の解らない何とはなしの回りへの配慮・遠慮というもので、納得していないにも関わらず、その空気に流されそうになる流れを自分の中に感じたときに、気持ち悪いし「それ、ホンマカ?」とはっきりと意識するのである。 身体への自意識が始り、他者と分けていく分化が始り、自我が形成される。そして、そこに考えという目に見えないものも入り込んでくる。この自分の考えと他者の考えを突き合わせる、ところが"自分にとってはどうなんだ"と自問する、葛藤としておこる自己矛盾と葛藤という自己との闘いなのではないだろうか。 そういうふうにとらえてみると、世の中ホンマカ?だらけである。そして身体へも健常といわれている動かし方や機能といったものに、「それ、ホンマカ?」と言う視点で気付くことは多い。 しかし身体と同じことが感性としても、それを出す前に今の時代は諦めが横行していることが嘆かわしいと思う。それはアメリカのイラク攻撃後一年としてある、今の日本の姿ではないだろうか。世の中あれよあれよとそっちの方向か? それ、ホンマ? みんなお利口さんのふりをしているが、"邪魔臭い"と言った相手の感情ばかりに合わせるだけで、いつの間にか流され言う事を無くし、そして何かを言うことを諦めていく。 そんな瞬間は、絶対に、赤信号である。それをやっちゃえばお終いで、相手に自分の感性と感覚を侵食され、自分が無くなってしまうではないか。そこの「何か、チャウで」という自分の感性に自信を持ち、流されることへくさびを自分で打ち、自分の感性をシドロモドロでも良いからお利口さんでなくて良いから、何か主張する。それが重なると言いたいこともはっきりしてくるし、聞いてくれる人も出てくるし自信となり強くなっている前とは違う自分が立ち現れている。 今諦めずに感性として、戦争のやれる日本へ進もうとしているのだが、それは自分にとってどうなのか。実感として、やりたくないのかやりたいのか。やはり一人ひとり自分の身体感覚に引き寄せて、諦めていないで、考えないと。そして行動しないと。 感性の問題としてだけ決して芸術はあるのでないと思う。大きな絶望感や諦めに居るからこそ、未来を求める心も肉体も一つにして、外側へ出さざるを得ない魂なのではないか。
by kim_manri
| 2004-02-07 19:30
| 芸術の庭
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