昨日に、桜餅を20個買って、ホール入り。みんなはそんなことはつゆ知らず。ホール退出まで残っていた。
今回炊出しはテントじゃないから、というよりも実はフットワーク軽く公演企画をやりたい、ということで弁当出しも無しで、各自自分の食いぶちは自分でやる、にした。
弁当出しに掛かる費用が制作サイドの負担であるのと、初めて大阪へ来ていただいたときの慶人先生の言葉に私はガーン、と来たことも大きい。「自分の弁当は、自分でいつも持っていますから、御心配なく」という言葉だった。
芸術というものは、余裕でやっているのではなく、自己としてその生命線を懸けやられるものであれば、それに携わる者もそれなりの覚悟で臨むのが筋である。という意味として私は受け取った。
これは凄い! 土方巽よりの舞踏の精神を聞くような、独特な響きである。もしかして、武士道にも通じるものか、と。
確かに慶人先生の何気ない言葉や監修される際そしてご自身の舞踏、に触れさせてもらいながら、よく感じるものには、人への甘えや寄りかかりを良しとしない、刀の刃の上で演ずるような独特な緊張感ある言語を使われている。
そこを私流にいえば
命そのものの在り方、として関わり合うことへの対等性、というものだと思う。
それは生き合うも殺し合うも、一瞬一瞬の真剣勝負でしかない。
逆に言えば芸術にとって、それだけあればよくて、余計な気遣いは邪魔になる。
人のご飯を心配するのは一種の美徳と思われがちだが、実はそう言った所にも落とし穴が存在していたんだ、と思う。
人を構わずに、一心に突き進む。そんなソロ公演の現場が立ち現れている。
昨日は、場当たりのみとは行かず結局、完全通し(ゲネプロ)もやって私は助走を付けている。