5/7夜p10、Scilがオフィスで持ったくれた交流会は楽しく語らい、終わった。そして代表の朴チャンオクさんが運転する、昇降機付きの車イスのまま乗れる会の車のバンで1時間掛かる、我々の宿舎ゴールデン・パーク荘まで送って頂く。
もうへとへとで風呂も入らずに、明日の早朝に急きょ入れた予定に備え、この日は寝る。
翌朝、a11には宿を出るというのに、a8:30から急きょ集まりを持った。
それは、我々が帰国する前に<どうしてもこれだけはやっておける>と見通しが出てきた、ということ。
今回のワークショップ中の凄い、参加障害者たちの高い集中力には、見学に来た人たちもこれはただ事ではないことが起こるぞ、という興奮は伝わった。
それは今回本当に多く助けられた一人に、単に通訳者というには留まらない凄い能力の持ち主で、障害者の介護まで自然に手や身を乗り出し動いてくれたカン・ヘジョンさん。そんなワークショップ最終日に玄関に立っていたら見学者の一人からカンさんは声をかけられたという。「この企画の主催者と連絡とりたいと思えば、どこにすれば良いのか? 又する機会はあるのか? 障害者で誘いたい人がいるのだが、どこに連絡すれば良いのか?」と、カンさんは質問攻めにあいどう答えていいのか解らなく、その人もどこかに立ち去ってどこに入るのか解らなくなった、とのこと。
そしてカンさんは、韓国では三本の指に入るという優秀な通訳者として、いろんな対世界と韓国社会が抱える問題、従軍いやん婦問題や戦争犠牲者問題にはなくてはならない通訳者として領域の深さも定評のある人だ。そのカンさんが続けた言葉に、私の心は決まって行ったところがある。
この企画は、これまでの韓国社会にはなかった多角な切り取りで、しかも重層に人をクロスさせる必要のある新しい動きだと思う。これも関わりとして自分は持った以上、引き続いての何らかの関わりとして考えていかないと行けないと思えたので、それを模索したいと思う。
と、自分から協力者になることを申し出て頂く。
通訳者として傍らで見守りながら思わず身を乗り出して頂け、協力者第一号表明してもらえるという、これほど行っている事への真価が問われるような冥利、なことはない有り難さである。
と、言うわけで帰国間際に慌ただしくそれも早朝に、僅か4人の人に声掛けさせて頂いた。
韓国で今後協力体制を作れないか、の会合を持ったのだ。
いろいろと問題は出されながらも、しかしなるべく早い時期に私たちがソウルへ来て、このプロジェクトをバックアップする韓国への呼び掛けを具体的に行えるよう、態変の方から用意ができれば集まりを持とうということになり、その連絡担当者にハジャセンターの教員の方でヒオックさんへ依頼し、快く答えて頂けた。
その会合はa11を30分ぐらいを過ぎ、我々は慌ただしく空港へと向うため、宿を後にした。