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ダンスアーカイヴプロジェクト4都市巡回公演in神戸2017年11月18日(土)神戸アートビレッジセンター(kavc)で行われた公演を観て来た。 Aプログラム・Bプログラムで成り立っていて、 Aプログラム|開場14:00/ 開演14:30/ 終演16:30 川口隆夫「大野一雄について」 Bプログラム|開場17:15/ 開演17:30/ 終演19:00岡登志子「手術室より」 大野慶人「花と鳥」 私はA・Bを観た。 Bプログラムから是非とも書きとめたいと思う。 「花と鳥」大野慶人の前半はこれまでの硬質な舞踏であったが、後半の女装での舞では素晴らしかった。これまでの大野慶人の硬質な舞踏でも、大野一雄の再来でもない、長い年月掛けた大野慶人の舞踏の全てが集大成された、大野一雄もそんな風に踊りたかった、と思ったのではないだろうか、と思わせてる”動”からの脱却。それは、静止にこそある、有、の誕生に立ち会える、命としての存在の時間であった。舞踏の本来求めるものは、これだったのか、という新たな発見を、周到に身体にみなぎらせる大野慶人は、ドレスから可愛いウサギに扮しそして少女に。新生大野慶人を観せていただいたような興奮が私の中で巻き起こる。そこにあるのは、靜止する間合いを凝視する無垢な舞、とでも言おうか。 これは凄かった。本当に観させていただけただけでも、そこに立ち会わせていただけたことが勿体無く、観客に与えられた宝珠のようであった。 その前に演じられた、岡登志子「手術室」は、岡の、手術台をイメージさせるスッキリとしたオブジェの上での、手と足の昇天する前兆のような緩やかな苦と楽のせめぎ合いを見るようで、さすがであった。 Aプログラムにも触れておこう。川口隆夫の「大野一雄について」は、プロモーション動画を観た、当初の期待、技巧的であっても大野一雄の持つ美への逸脱感、もあるのでは?が、感じられずそこは残念。 私は1993年に大野一雄とワークショップをしないかというオファーを受け、初めてご一緒し、翌年から始まった大野一雄全作品プロジェクトを観ることが奇跡的に間に合った世代だ。東京・横浜・大阪と公演の度に飛んで観に駆け付けた。そして1994年・1996年の2度、劇団態変と大野一雄のコラボレーションを関西の地で行った。又、1998年には大野一雄の監修により「ウリ・オモニ」をソロで作り、公演へ大野一雄に駆けつけていただきアンコールで、2人で踊った。 その後に寝たきりになられた大野一雄のベットの傍らでも「愛の夢」で一緒に踊った。 その魂の舞踏に直に触れさせていただいた者として、川口隆夫の「大野一雄について」の作品作りへ一定のリスペクトを表明しつつ、尚且つだからこその感想を言うべきだと思う。 その技巧はやはりダンス的でよく動く鍛錬された身体性に傾き、だから大野一雄の舞踏の形のデフォルメに終わっていていいのだろう。そのことは、危ういバランスで成り立っている、という緊張感が見て取れそれ自体で充分に成り立つ。 大野一雄の名声高い公演時の、実際のホール内の咳払いも全てがそのままの無音も含め当時に使われた音楽の収録音が、この川口の空間を支えている。大野一雄が体で出す音に、床にこする時の体・足を大きく踏み出すときの靴音、その靴音に合わせ、川口も同じように靴を踏み音をたてる。そこで、これは音を録音した際の映像を執念に見て、大野一雄の動き、を正確に模写し、成り立ていることに、大野一雄を知る観手の私はハッとする。大野一雄を知らない観客もそこで気配を感じ、大野一雄不在の、現実にある今のホール自体が、不在の大野一雄と自分と演者の息遣い、の三次元を取り戻し体感する。そこに、このアーカイブとして充分過ぎる、狙いを見る。 だが大野一雄に触れた者として、正直なところ、川口の足で踏む技法にコンテンポラリーダンスをしてきた人が達者に大野一雄を模写しようという、それ以上でも以下でもない、ということ。その模写のしかたに、一面的なもの。を、感じざるを得なかった。 大野一雄の魂、が宿っていないとこれはこうなるのか?と思わせたもの。それは、口、である。大野一雄の”口”を、形として真似る、ということなのか、どうかは判らないが、私には違和感があった。それは、川口は常にポッカリと空いた状態で踊っているところ、へだ。大野一雄の舞踏の、口、は一番あとに魂についてくる恍惚感の極みであってそれは、薄っすらと或いは深く開く、意識外にある身も心も全てが逸脱したときに出ざるを得ない、もの。 形としての模写で川口が、常に空いた状態の口、を演じているとしてら…、それは結果、稚拙に見え、大野一雄への仇になる、と。魂の伝承ではなく、形態模写としてなので、致し方ないのかも知れない。ならばせめてそこだけは、変に形を踏襲せず、口は閉じて演じることで良いではないか。 だから、大野一雄という偉大な舞踏家を、徹底模写するという行為はそれだけで、既に別物だということをもっと受け入れるべきではなかろうか。
by kim_manri
| 2017-12-15 20:32
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