自分の中では、フェイスブック、元気な時に人と繋がれるツール。ツイッター、元気がない時でもつぶやきたい、外へ向けてのツール。
でもねぇ、これらは書くことで自己満足の大いなる時間を、無駄に消費している感がしていて、どうなんだろう?ということは常々思うこと。
かといって、毎日ブログへ日記風にしたためる、ストイックさはないな、と感じているのだが…。
最近老眼でメガネなしでは文字が読めず書けずになってきて、凄く変化してきているのを感じている。
その問題は老眼だが、ものが見えにくいという現象で、全体への認識を人の目はいかにしているか、ということの気づきである。
全体のシルエットから細部への認識に移る、認知プロセスをしているということ。
だから、全体のシルエットで見えにくく掴めずにいると、細部へ移ると細部がこれまで知っていたどれにも当て嵌まらずに、まるで知らない世界に放り込まれたような混乱をきたす。
よく目を凝らし理解を総動員し必死にものの把握に努めようとする。そして、これまで知っていたものであるか、初めて出会うものかが分かりだすと、ホッとするのだ。
所謂、こういうことはフェイスブックにもツイッターにも書けない、私的な感覚世界を普遍化したい作業なんだろう。
思考する、とか表す、とかのプロセスへ向かう豊穣な時間、でいて内であって外へ向かう文学的な時間。