2月5日 公演3日前
『ウリ・オモニ』の作品は、監修の大野一雄との出会いがなければ生まれていなかった、というのは何度も書いている。
大野一雄の私にとっての魅力は、背広で男を舞うダンディズムと女装で女を舞う異質なものへの近寄り方、その底に流れる相反する質、反発と牽引の拮抗と矛盾、その先にある絶妙なバランスでのうねりが融合する瞬間、にある。
私は自らの女性(おんなせい)に対する拒否感は、小さな頃からあって、それは、諸、女、として見られることへの反発心だった。
それはよく障碍者だから女扱いされない、というところからくる、所謂、差別、の問題、という所以ではなく。もっと、女にまつわる固有な属性でしか、女は先ず見られる、という現実への反発である。
女は、人間という一個の人格、を持たされず、女、としてしか見られない、という事実にある。だから、ずっと、私が身体障碍になって良かったのは、女、という属性から弾かれたことが、人間性確立にとって如何にそれが有利だったか、という持論を持っていた。
その一方で男への不信感があり、はっきり言って、男嫌いである。
それは私生児として、父親の不在での母系家族で育ったこと、産むきっかけとなる父親に対する、男の身勝手さを許せない恨み、というものがある。
このことで私は、ものの価値観に中性的、を求めていたのだ。だが、まぎれもなく私は、女、という側であるのは認めていた。
芸術表現にとって、その、性、を通り過ぎてやって行きたかった。
だが、大野一雄の舞踏に出会い、そこへの拘りに自問が浮上仕出し、
大野一雄自身も持論である、人間の存在は両性具有ではないか、ということが、
その表現に現れているところに、見入ったのだ。
一つの普遍を感じさせる、魂のありようが身体表現となっている。
そうならば、今度は女の側からの、女の表現があっても良い、と思えるようになった。
それは私の芸術観にとって大きな変化であった。
この『ウリ・オモニ』の作品となる前の伏線に、これだけの出会いがないと、成立しなかった作品なのである。
『ウリ・オモニ』は、金紅珠を母に大野一雄を父にして、できた作品である。