2月14日(木)(C)N.Ikegami
2月11日(休 月)千穐楽を終え、その日の内に帰阪した。
舞台とはやはり魔物だと思う。
理性的に客観視している自分を、尚高い所から冷静に見ている自分がいて、と、思っているとその実、
いろんなものを追う内に、知らぬ間にズ
ッぶりとその得体の知れぬものに乗っ取られている。
そんなふうに、自分と向かう像と、それは、自分の身体の動きを只々追っていて身体に聞いている状態。
具体的には、そうこうしていると寝たきり姿勢での演技が多いこの作品は、転がっている内に床面上で自分の位置を見失い、
(冬山登山でよくある)さ迷い、遭難状態さながらになる。
吹雪く冬山を方向を見失い、ホンの近くに道が迫っているのに、どうにも千里の距離で辿り着かない。
そんなふうにして、予定調和は見事に破壊されるのであった。
僧舞(スンム)での最後、僧の衣装で転がりながら去る筈が、その前段の這々の体でのさ迷い過ぎで体力を使い果たし
た私は、一旦仰向けになったら最後、梃子でも背中を床面から上へ上げられなくなり、鳥餅状態になってしまったのだ。
僧舞の衣装は透明感のある滑る薄い布で形作られていて、袖も裾も長く、手はその長い袖の中に隠れていて、
文字道理、手も足も出なく動けない。
かくなる上は、衣装を剥ぐようにして脱ぎ捨て身一つになって、その衣装から抜け出し解脱するしか道はない!と、
衣装を脱ぎだした。
しかし待てよ、衣装を脱いでもその上に自分の体がある限り、下にある滑る布から如何にして這い出るか?!
と、私の脳裏に、次なる課題が迫り出した。
と同時に、照明が薄暗くなり音響もフェイドアウトに、と。
すると見事な連携で、黒子が2人現れて、シカと私の身体を抱え込み宙に浮いた。脱出!
斯くして、黒子によってハケと相成った。
こういうアクシデントで、その後のそのシーンも変化していく。
動ける動けない、の優生思想ではないこところで、演じることをやるのが態変の身体表現である。
そういう本道を、この『ウリ・オモニ』で私が自らの身体で予期せずして、示すことになったのだ。
しかし、それでも、舞うのだ。
舞台の魔物性は、金紅珠と大野一雄に、私は憑依され演じ続ける毎日だったので、
2人を知らない観客へもその2人が見え感じ、追体験したという。
このようにして、いないものが蘇る、ということが、この擦った揉んだの中に全部が入っていて、あるということ。
そんな身体表現芸術をあのスズナリの舞台でやって来たので、そう簡単には
どこへの現世にも、戻って来れない状態である。
いや〜、私は、何処へ行っていたのだろうか。
そして、徐々に、戻って来つつあるので、こうして『ウリ・オモニ』舞台の一コマを記しているのだが……。
何がどうなっても、面白いのだ。