3月18日(月)
昨日の『箱庭弁当』稽古。
パフォーマー、パフォーマー見習いたちと、ワークショップ的稽古の2回目。
最後の方で、障碍者たち持ち寄り弁当、会食会を行う。
今は大事な時期で、黒子でも健常者はスタッフ的1人だけ残し後の人たちは二階へ上がってもらい、
パフォーマーの障碍者だけで稽古も弁当会もやる。
健常者が多いと、障碍者の言いたいことがどうしても、健常者気遣いでストレートには出てこず。
障碍者の主体を十分に伸ばす初期には必要なワークショップ期だから、健常者目線をなるべくなくし、出し合える環境を作る。
食に関しつらつら、今日=
私の小児麻痺になった子どもの記憶では、食べることへの執着がなく、
何を食べさせられても美味しいと思ったことのない、子ども時代であった。
その時は阪大病院の個室での生活で、沢山いる姉の上から3番番目の姉に食べさせてもらっていたら
何を食べさせても、いやそうに食べている、と叱られたものだ。
7才で収容施設に入れられるのだが、食は細くガリガリに痩せていて、勿論施設の食事は不味くて冷たく、
お負けに職員の配膳手間を掛けないのが当たり前で、おかずの分量は全員均等で劣悪なもだった。
当時、入所している子どもたちの親の家庭事情はまちまちで経済的な差ができる、という理由から
面会に来た親が外から食べ物を持ち込み子に食べさせることは禁止で、施設で出される食べ物以外口にすることは
施設の規則違反となり、一ヶ月間の面会謝絶、という罰則があった。
だから子どもたちは、成長期になるとみんな、空腹だった。
だがそのお陰で、少しは食に対する欲が出て来た。
消灯の9時には布団の中に押し込めれ寝かされるのだが、空腹を抱え
頭の中では食べたい物の空想が色や匂いまでも伴って浮かんでくるのだが、
それが結構好きだった、というストイックさだ。
施設という劣悪な場に放り込まれ、食欲という生きる本能が蘇って来たのだろう。
生命感の薄い子どもであったことは変わらなかったが、食への目覚めははっきりとここだと言える。
それ以来、食は、芸術の源泉、と思っている。
さぁ、どんな『箱庭弁当』があらわれるか、だな。