5月15日(水)
5月17日、自立しての人生6度目の引越しを前に。
現在の住み家は、都会の真ん中では信じられないぐらいの、木造二階建てで部屋と部屋の間に廊下がはりめぐらされた四部屋と床の間があり裏に小さな庭付きの、日本の古式建築家屋だ。
静かな環境で、家にいると田舎生活風でとても落ち着く。
なのに、初のマンション暮らしとなることを選んだのは、昨年6月に起きた大阪北部地震。
私の住む東淀川区も震度5.9とかなりの揺れだった。
幸い、高い物は置かずに地震に備えていたので、家の中は私の見えない二階の部屋で本棚が倒れた、ということだった。
南海トラフ巨大地震が近いといわれだし、それでも大丈夫だろうと高をくくりたいのは人の常。
このときを境に微震がつづく恐怖とともに、これは確実に地殻変動が起きていると、大きい地震が我が身にふりかかることに避けられないと観念した。
つくづく人間とは、幾ら口では大震災への被害者へ思いを馳せようとしていても、我が身にふりかかることと他人事への感覚の隔たりはどうしようもなくあって、身勝手なものだと思う。
6月の地震の際、先ず避難所への対策を大阪市は全く考えておらず、特に障碍者の自立生活者がどういう経路で災害から身を守りどう生活を維持させればいいのか、に対し全く無策だと思い知らされた。避難所へのガイドラインが皆無なのだ。
阪神淡路大震災のときも、重度障碍者が体育館などの一般の避難所生活で、生活の困難さは想像もできないほどだろうが、その上同じ避難者の健常者から露骨に嫌がられ排除される差別に晒され路頭に迷う目にあったこと、を情報誌イマージュでは記録し聞いていた。
要するに、私のような重度の自立障碍者の場合、介護者をつけての避難所生活は想像をはるかに超えるということ。
その介護者にも生活があり、幾ら災害時は交通も止まり身動きできないといっても、そう長くは運命共同体はつづかないもの。
かといって避難所へ、ローテーション介護者が通ってくる?非日常へ適応するだけでも右往左往で、それはとんでもなく不可能に近い話になる。
私のように、劇団を率い又自分の周りに人を集めての重度障碍者の自立生活を長らく展開し、何だかんだといっても責任ある立場である。
昨年の地震後に多くの方々から、メールが届きご心配いただいた。
本当に、渦中になれば、自覚は返って薄くなる。
だから後から少しでも分かったことは、前に進ませないと、と、約一年が経過する今になってしまった、引越しだ。
それが、別天地からの脱出となった。