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9月13日(金)
態変の事務所兼稽古場を応援してもらっている賛助会員。 情報誌「異文化の交差点・イマージュ」の定期購読。 ここ2年ほどは両方に申し込みをしてくれて、毎年の名前の更新で目にしていた、 早い時期に大阪NHKに障碍者雇用を勝ち取り努めていた、 私の子どもの施設地代からの大親友の、堀田節子さんが67歳でこの6月に癌で亡くなっていたことを知る。 態変事務所に最近の情報誌74号が戻って来て、電話連絡しても番号はすでに使われてなく、 調べて欲しい、という事務所に立ち寄った連れ合いに言われ、そんなバカな、 どこかに引っ越しでもして生活を一新させているのだろう、と思いながらも急いで調べていた。 せっちゃんは、背が伸びない小さいままの障碍で、歩ける。 施設へは学年の中途から入ってきて、西病棟で軽度の高学年の女子の部屋である畳の敷かれた、通称畳部屋にいた。 私は東病棟で重度の高学年の女子のベット部屋にいた。 そこは、障碍児100人が寝起きをし、治療訓練・義務教育を目的にした収容施設である。 今思うと、職員が子どもの日課での世話がしやすいようにだろう、 比較的軽度が集められ職員が手をかけずに済む畳部屋(8人とか多いときで10人押し込められていいた時もあったのでは?)が女子と男子に各1部屋あり、ベット部屋でも10人もの大部屋があり人数を多く60人収容の、西病棟。 職員の手がかかる重度の障碍児中心に集められ、世話しやすいベット部屋しかない40人収容の、東病棟。 西と東では、空間が違うのは文化が違うぐらいに、子どもの高学年になれば思っていた。 西病棟と東病棟の間での、男子はそれでも越境し友だち付き合いはしていたが、 女子は全く閉鎖的で友だちになることは滅多になかった。 重度の私たちは、軽度障碍児童への職員の扱いが規則に縛るのがゆるい、という不公平感があり、 而も施設内である年間の行事での軽度の役割が大きいのに対し、軽度から不平が出て、やらない、発言があって 紛糾し。 私は率先し、そういった障碍の程度の違いによる施設職員からの扱いに、問題にする姿勢だった。 そこには軽度障碍と重度障碍の断絶ももちろん問題視していて、軽度障碍があまりにも他をかえりみない 言動への不信感を真正面から口にして、周りへの波紋を投げかけていた。 そのうち私やせっちゃんが、一番年上の世代になったとき、軽度障碍の高学年の人数はぐんと減っていた。 時代ごとに障碍の種類も変容するのだ。 高学年のそれまでの目上の軽度の人たちは気がつけばみんな退院し、 東病棟の重度の私と、西病棟の軽度のせっちゃんと同じく西病棟の松葉杖で歩ける白さんと3人が 何故か友だちとして意気投合し、それまでの私が問題にした軽度障碍と重度障碍にある隔たり、についても 互いに東と西の、重度と軽度の立場で、自分たちが友情を育めたことは、それまでの問題意識も和解できたことを確認したのだった。 そこで、私は重度として、やれず悔しかったことを一緒にやろう、と提案し2人は喜んでやろうと言ってくれた。 それは、施設の規則破り、を結構し一緒にそれをやることだった。 提案は、放課後の誰もいない教室で、外から持ち込んだご馳走を3人で食べる。 であった。 これはとてもスリリングなことで、外から美味しい食べ物を持ち込んで教室まで持って来る、 事自体難物だが、そこは私がうちの親に頼み込んで私が何とか教室へ運ぶ、ことにした。 一番人気のなさそうな時間に、その教室で待ち合わせ、その時間内で持ち込んだ棒寿司のようなものだったように記憶する それを、一斉に3人で食し、ディナーよろしく規則破りをする。 結構し、見事に成功した。 しかし、うちの親が持って来てくれた棒寿司の量が半端なく多く、体格のいい白さんが最後は吐きそうになりながらも何とか吐かずに口に押し込んで終わった。 とても味わっての会食会にはならずであったが、みんなは、管理されるのを破って そういう時間を一緒にくぐり抜けた爽快感は誰にも譲れずそこにはあった。 せっちゃんは、とても聡明で闊達な女性として、その後も仕事一筋にNHKに勤続し定年退職していた。 私が、NHKで自分が取材される立場になって、訪れるときには、 取材終わりに必ずせっちゃんに声をかけ、NHKの社員食堂でお茶をして友好を温めることが楽しみだった。 が、何時かは、この当時の話をじっくり思い出しながら、笑い会い話せる時間を持てたらなぁ、と思っていた。 それが、そう思っていることすら伝えられず、突然に聞くせっちゃんの訃報。 言葉もなく寂しく、とても悔やまれる。 今も続く障碍者間の葛藤、 施設が存在する本質的な問題、を、今なら私は論理で言える。 健常者文明から図られる障碍の程度の差を、重度の障碍の自ら内面化させられることへの抗いとして、 響きあえる友がいて、障碍の重度と軽度の互いの壁を乗り越えるためにそれは一瞬にして 氷解するように壁が必要なくなる経験を、自分たちで作り出せた、ということ。 大きな、問題への突破口を、小さな規則破り、で、ちびっ子ギャングたちはやった、ということを、 せっちゃんへ捧げる意味を込め、ここに胸を張って明示する。
by kim_manri
| 2019-09-13 17:31
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