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落語家、笑福亭仁勇さんが急死された、というショッキングな報をフェイスブックで見つけた。今まで当たり前にいた人が、自分たちの前から居なくなる、喪失感。今日葬儀が執り行われ、参列させてもらった今も実は拭いきれない。
仁勇さんは、ご自宅が近いということで態変の助っ人にも、自身の身が空いていたら駆け付ける、という意思表示をやっていただいていた、強い味方だった。 葬儀では落語会からは勿論、仁勇さんが本当に身を粉にして、歴史を語る会や淀川河川敷フェスティバルやご自身の淀川区の地域、三津屋の振興など、市民活動をやっておられたので、多くの市民たちも参列し、焼香の烈は後を絶たずあちらこちらででの啜り泣きが聞こえ、大勢が見送る立派な葬儀であった。 享年59歳。落語家としては60歳からが油が乗ってくるいい噺家の条件のこれからを、期待されていたのに・・・、という終わりの挨拶での笑福亭一門の兄弟子の言。
2・3年前の態変のクリスマスパーティーに遊びに来てくれた仁勇さんには、少しだけ落語を披露してもらった。お聞きし、将来の一門を背負うぐらいの良い噺家になられるだろうな、とはっきりと思った。 実は私とは、噺家になられる以前の、私が「青い芝の会」で活動家だった時分に、仁勇さんと名乗るまえの山澤健二として、豊中の桜塚高校の落研で、その当時の反差別運動の機運の高い波の影響も受け、高校生で、青い芝活動と共に行動する健常者支援組織グループゴリラの北部地区で活動していた。だから、男性障碍者の介護などで運動事務所で顔を合わせ、彼の高校生時分に運動を少しの時期一緒にしていたのだ。 卒業後、彼はすぐに、笑福亭の門を叩いて落語家への道を選ぶ、ということで運動へは足を洗ったわけだ。 当時、そのことを落胆する運動内部に対し「落語界に、ゴリラを作ったと思えばいいやん。」と、言い放って歓迎した経緯があった。 それが結果的に青い芝という範囲を遥かに超え、彼の助っ人は、劇団態変やその他への市民の元へ還元される新しい出会いが本当に嬉しかった。 でも、そこをじっくりと仁勇さんとお話できないままの別れに、心残りが残る…。 今日の一門の兄弟子からの挨拶で印象深かったのに ・実は彼は、大勢の人の中に居ると、そう目立つような動きをする人じゃない。しかししっかりとした芯の有る、たった一人で立てる人という存在。 ・落語界を多くの人たちと繋げる、その役割は計り知れない。 という言葉があって、最も大事な仁勇さんの佇まいをよく捉えられていて、さすが落語の世界の洞察の鋭さだと思った。私は違う世界を垣間見ながらも、仁勇さんの葬儀を通して、共通の思いに立てる。そんな大きい人だったのだと、兄弟子の一門として大きな喪失感と実際の打撃を充分に感じる涙で、言葉を詰らせながら話されていたのが印象深く、同感であった。 だから大きな失意とともに、彼の残していった物や事へ、本当にありがとう、と。私、絶対に繁昌亭に落語聞きに行こう、と思ったのだ。 最後の出棺に、出囃子で「宮さん」を選ばれ、新たな旅立ちへの葬送への、笑福亭一門の悲しみと気合とを、仁勇さんへ捧げられた。 私は、やはり最後に「イ、ヨッ!」と、大きく声が出て、ハレの舞台へと、仁勇さんが舞って行くのを確かに見届けた。 ■
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by kim_manri
| 2017-12-19 17:46
| 芸術の庭
'99.7.26(月) 昨日のNHK衛生1での、チェリストのムスティスラフ・ロストロポービチの対談を観て、最近の私が感じてる所感がはっきりしてきた。 それについて 如何に今まで子供のふりをして自分の意識を表に出す時には一番低いところから表現する癖がついているかということを思い知るようになってきた。人間は自分の置かれてきた又置かれている状況に対してもっと真摯な言葉をもって外へ言うことが出来るし、その時は自分の中の混とんと或る意識の一番高い場所から自分を表現し、又言葉としての意識化を図らなければならない。 この事は私が運動をしていたときには或る程度実行に移してきたように思う。しかし、私にとっての運動の敗北を経験したときから、外に向かって意見などを表明するそこまでのことではなく単に「言う」という行為が、志の高いところで言うのではなくいつも低いところの「言う」であったことに気づく。 人間はうまれながらに社会的であり政治とは無関係でもない。私がとってきた対人の距離はやはり何だかんだと言っても無国籍という振りでありそれが無意識のうちに自己を無色にしょうという行為として、志の低い子供的振る舞いで良しとする価値観に自らを染めていたのだと思う。 これは成熟を嫌うという今の日本の風潮そのものであろう。自らには何の責任脳力のない与えもしないが取りもしないという人畜無害な振りが身に付いている意識の現れの結果としてではないだろうか。 そういう意味で私にとっての運動の挫折は、正しく日本の敗戦と同じ意識の経過を辿ってきたのかも知れない。 自分の意識の高みの所で自己の表現をしていく。そのことが私なんかの立場からすると社会的にも政治的にも全ての責任を負わされそうで、その部分を避けるためにあえてその位置は取らなかったともいえる。 しかし少しづつではあるが、日本の社会も変わりつつある証拠だと思うが、私が背負い込む必要はなくなってきたのだろう。私は私として、真の大人としての志の高いところでの自己の言葉の表現も日常の中からしていく努力が、又必要なのを感じる。 これは大きな自己の視点の展開をまた課せる時期が来たということをはっきりと意識したのだ。 私が偉業を本当に成し遂げることが出来るかどうかの自覚の問題として。 199.7.26 金満里 ■
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by kim_manri
| 2017-12-17 20:59
| アーカイブ
ダンスアーカイヴプロジェクト4都市巡回公演in神戸2017年11月18日(土)神戸アートビレッジセンター(kavc)で行われた公演を観て来た。 Aプログラム・Bプログラムで成り立っていて、 Aプログラム|開場14:00/ 開演14:30/ 終演16:30 川口隆夫「大野一雄について」 Bプログラム|開場17:15/ 開演17:30/ 終演19:00岡登志子「手術室より」 大野慶人「花と鳥」 私はA・Bを観た。 Bプログラムから是非とも書きとめたいと思う。 「花と鳥」大野慶人の前半はこれまでの硬質な舞踏であったが、後半の女装での舞では素晴らしかった。これまでの大野慶人の硬質な舞踏でも、大野一雄の再来でもない、長い年月掛けた大野慶人の舞踏の全てが集大成された、大野一雄もそんな風に踊りたかった、と思ったのではないだろうか、と思わせてる”動”からの脱却。それは、静止にこそある、有、の誕生に立ち会える、命としての存在の時間であった。舞踏の本来求めるものは、これだったのか、という新たな発見を、周到に身体にみなぎらせる大野慶人は、ドレスから可愛いウサギに扮しそして少女に。新生大野慶人を観せていただいたような興奮が私の中で巻き起こる。そこにあるのは、靜止する間合いを凝視する無垢な舞、とでも言おうか。 これは凄かった。本当に観させていただけただけでも、そこに立ち会わせていただけたことが勿体無く、観客に与えられた宝珠のようであった。 その前に演じられた、岡登志子「手術室」は、岡の、手術台をイメージさせるスッキリとしたオブジェの上での、手と足の昇天する前兆のような緩やかな苦と楽のせめぎ合いを見るようで、さすがであった。 Aプログラムにも触れておこう。川口隆夫の「大野一雄について」は、プロモーション動画を観た、当初の期待、技巧的であっても大野一雄の持つ美への逸脱感、もあるのでは?が、感じられずそこは残念。 私は1993年に大野一雄とワークショップをしないかというオファーを受け、初めてご一緒し、翌年から始まった大野一雄全作品プロジェクトを観ることが奇跡的に間に合った世代だ。東京・横浜・大阪と公演の度に飛んで観に駆け付けた。そして1994年・1996年の2度、劇団態変と大野一雄のコラボレーションを関西の地で行った。又、1998年には大野一雄の監修により「ウリ・オモニ」をソロで作り、公演へ大野一雄に駆けつけていただきアンコールで、2人で踊った。 その後に寝たきりになられた大野一雄のベットの傍らでも「愛の夢」で一緒に踊った。 その魂の舞踏に直に触れさせていただいた者として、川口隆夫の「大野一雄について」の作品作りへ一定のリスペクトを表明しつつ、尚且つだからこその感想を言うべきだと思う。 その技巧はやはりダンス的でよく動く鍛錬された身体性に傾き、だから大野一雄の舞踏の形のデフォルメに終わっていていいのだろう。そのことは、危ういバランスで成り立っている、という緊張感が見て取れそれ自体で充分に成り立つ。 大野一雄の名声高い公演時の、実際のホール内の咳払いも全てがそのままの無音も含め当時に使われた音楽の収録音が、この川口の空間を支えている。大野一雄が体で出す音に、床にこする時の体・足を大きく踏み出すときの靴音、その靴音に合わせ、川口も同じように靴を踏み音をたてる。そこで、これは音を録音した際の映像を執念に見て、大野一雄の動き、を正確に模写し、成り立ていることに、大野一雄を知る観手の私はハッとする。大野一雄を知らない観客もそこで気配を感じ、大野一雄不在の、現実にある今のホール自体が、不在の大野一雄と自分と演者の息遣い、の三次元を取り戻し体感する。そこに、このアーカイブとして充分過ぎる、狙いを見る。 だが大野一雄に触れた者として、正直なところ、川口の足で踏む技法にコンテンポラリーダンスをしてきた人が達者に大野一雄を模写しようという、それ以上でも以下でもない、ということ。その模写のしかたに、一面的なもの。を、感じざるを得なかった。 大野一雄の魂、が宿っていないとこれはこうなるのか?と思わせたもの。それは、口、である。大野一雄の”口”を、形として真似る、ということなのか、どうかは判らないが、私には違和感があった。それは、川口は常にポッカリと空いた状態で踊っているところ、へだ。大野一雄の舞踏の、口、は一番あとに魂についてくる恍惚感の極みであってそれは、薄っすらと或いは深く開く、意識外にある身も心も全てが逸脱したときに出ざるを得ない、もの。 形としての模写で川口が、常に空いた状態の口、を演じているとしてら…、それは結果、稚拙に見え、大野一雄への仇になる、と。魂の伝承ではなく、形態模写としてなので、致し方ないのかも知れない。ならばせめてそこだけは、変に形を踏襲せず、口は閉じて演じることで良いではないか。 だから、大野一雄という偉大な舞踏家を、徹底模写するという行為はそれだけで、既に別物だということをもっと受け入れるべきではなかろうか。
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by kim_manri
| 2017-12-15 20:32
| 芸術の庭
![]() いや〜、いつも途中で尻切れトンボになる悪癖を打開すべく、 祭りにあるのは、日本の民謡に必要だった精神、それは体を動かして働く、という日常の労働を裏で支える労働を促す拍子取りだったろうし、踊りは年に一度のお盆に踊る盆踊りのような、その労働や日常というものからの逸脱の無礼講的儀式の所作、としての踊りではないだろうか・・・、そんな漠然とこれまで抱いた日本の民衆にとっての民謡や祭りの意味が、この場に来てとてもはっきりと自覚できる不思議な場を体験した。 そんな橋の下に態変が出演する。これは日常と非日常を繋げる増幅を投げ込むこと、だな、これは。 エス(愛樹)たちの橋の下は、今回非常に繊細な気遣いで、態変を迎えてくれた。 態変の今回のミニ公演タイトルには『幻視の郷』。そこへの思いは、僅かな3日間に立ち上がる、豊田大橋の下と芝生で広がるキャンプ地一体。猥雑も神聖も一緒くたになった本来あるべき人の息吹充満する、清濁併せ持つ場。そこから尚向こうへと旅立つための停泊地から、臨む景色、を見たいがために集う我ら。 そんな水陸両用の停泊地へ、態変からのメンバー総勢10名。 内パフォーマー、私・小泉ゆうすけ・下村雅也の態変メインとこの公演でインターンから態変の正式パフォーマーデビューとなった新人渡邊綾乃、4名、運転に駆り出された私の介護者の保帆・黒子に七井・春藤・村瀬・和田・仙城さん。 真昼の野外、愛樹が入念に選んだ舞台設置場所には、劇団態変『幻視の郷』と描かれた看板が上げられ、嬉しい虹色立派な小屋を当てが得られて光栄の至りにクラクラ。円錐状のタワーが横につく平台と囲いで舞台と袖・後ろにはヨシズで目隠しされたミュージシャン席が設えられ、橋の下では通常はしないというリハーサルの時間まで、受け入れてくれた。これは取ってよかった! 折しも、前日の雨とはうって変わって、いいお天気の日和に恵まれてのリハーサル。エス(愛樹)が設営とリハ準備にずっと立ち会っていて、私の顔を見るなり「まんりさん、このマットが黒いんで、かなり熱していて、問題じゃないかなぁ。」と。そこで、まぁ、上にパフォーマーが乗ってやってみましょう、と暢気に私。するとエスの心配どうり、黒いダンスマットがお天道様に照らされて、熱々になっていてあわや、パフォーマーの足の裏を焦がすところ。態変の場合のパフォーマーは勿論身障者なので、私もそうだが座りや寝転がりでの演技で立てる者も然りで、瞬時に動けない。だから、熱くても自分の体を退けれないので、焦げる、火傷する。リハまでの間、ステージの床面にフォローをかけて日差しを避けれる工夫を早々に取ってくれ、リハは始められた。 音楽にはエスのバンドグループのタートルアイランドから名ギターリストのCazUが引受けて、何回も大阪アトリエに通ってきてくれ今回の作品『幻視の郷』シーン作り、を、シンセで一緒に音創りをやった豊田奈千甫さんを伴って作った。そして当日には、特別友情飛び入り出演でギターパンダこと山川のりを氏、といった緊張感みなぎる豪華メンバーの楽座が、黒い葦簀の向こうに。 そして今回のミニ公演に必要なルンタ(チベット密教で信心の印の、風にはためく四角い仏典を記した、旗の並)を準備段階からみんなで作ってくれた、手作りカラフルルンタを5本、助っ人たちが大事そうに持っている。 態変リハを黙って立ち会って終わってから、ルンタのセッティングを「やっぱり、変えるは!」と英断下すエス。舞台上での態変パフォーマー演技に支障ないよう、どんどん変えだす。まぁ、直感でみるみる、いい感じに。 トワイライトを挟んで見せたい、とのプロデューサーのエスの設定時間帯で始まる。その前の日に先乗りしてワークショップしていた私は、参加の障碍者を最後のシーンにスカウトしていた1名もレオタードを着て。 青天井でやる態変公演は、ケニアでも大阪でもあって、元来大好きな私である。 相模原で殺された19名の魂もここへ呼んで、一緒に幻視の郷へ行けたらいいと、思いを遠く遠くへ飛ばし引き寄せ着地させるために、氣を入れる。 夢のような一時は過ぎて行った。そして、また、あの世へと19名は帰って行った。 記憶し、忘れられない、あの世とこの世をひらく川を渡って、我々も帰って来た。 遅くなってけども、これは記録しておきたかった。 するとエスとの対談収録を掲載した、うちで出している情報誌「異文化の交差点・イマージュ」Vol.69が、新しく刷り上がって来る頃になっていた。これと合わせてどうぞ有料で、取り寄せ購読していただけると、もっとワクワクと臨場感ある現場をご一緒できると思います。詳しくは 態変ホームページ出版物案内→http://taihen.o.oo7.jp/imaju/imaju.htm 手軽なPayPalで申し込みもあります。 エス(愛樹)と黒子の村瀬と 豊田大橋真下の「橋の下世界音楽祭」の場で ■
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by kim_manri
| 2017-12-05 12:36
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